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編年体御書の中で日蓮大聖人様は、
地頭の不法ならん時は我も住むまじき(1729ページ)と日興上人に御遺言されています。
つまり「謗法の地には、私の魂は住まない」と仰せです。




また大聖人様が弘安二年の大御本尊様を顕されたのは、悩める一切衆生を救いたいと言う大慈悲によるものであり、また広宣流布の大願の為でもあります。
この広宣流布の一念、また悩める誰かを救いたいという慈悲の一念で信心する事によって、大聖人様と同じ仏性が目覚めるのです。




仏法哲学大辞典第三版には次のようにあります。 

"大聖人が大御本尊に込められたのと同じ広宣流布の大願を脈動させた強き信心で御本尊を受持すれば、いずこであれ、その場が直ちに本門の戒壇(義の戒壇)と現れるのである。"
(仏法哲学大辞典第三版 1574ページ)




つまり広宣流布と万人救済を実践する各ご家庭のご仏壇が「本門の戒壇」であり、ご安置する御本尊が「本門の本尊」であり、唱える題目が「本門の題目」で三大秘法です。
結局は、心こそ大切なれです。 


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